6月30日で今年もいよいよ半分過ぎ、後半に突入となりました。
この半年分の厄を落とし、後半の無病息災を祈るしきたりが日本全国にあるようです。
私が学生時代を過ごした京都では6月30日に「水無月」という和菓子を食べる風習がありました。
平たい三角のういろうの上に小豆が乗った和菓子です。
この日は鷹匠町の山内神社の輪抜けの神事に参加しました
ヨシで作った大きな輪をくぐり左に回ってまたくぐり、今度は右に回って八の字に。
社殿での神事の後は「人型」という紙を切って人の形にしたもので頭から上半身をさすり、次にそれに三回息を吹きかけてから奉納します。
厄よけの身代わりなのでしょう。
神事終了後には三翠園で直会ですが、直会に先立って山内宝物資料館の渡部館長が「山内家と和菓子」と題して講演されました。
大変興味深いお話でしたのでここで少し紹介します。
高知市に西川屋という和菓子屋さんがあります。
現在のご当主で12代目だとのこと。
この西川屋さんのルーツは現在の香南市の香我美町あたりだとか。
当時のご当主が山内一豊公と面識があり、そうめんを献上。
なんと元はそうめん屋さんなのだそうです。
赤岡や香我美町あたりは小麦や塩があった関係でそうめんが作れたのだそうです。
ところがこのそうめん、当時はお菓子に分類されていたそうで、「白髪そうめん」という名前のお菓子だったそう。
当時お菓子は高級食品で庶民の口にはとても入らないしろものだったとのこと。
それが1700年代になると次第に庶民の口にも入るようになったのだそうです。
理由は藩がそうめんはお菓子にあらずと定義したからだそうです。
おかげで村々でも食べることができるようになり、更にお遍路さんに売る餅もお菓子ではないとされ手結山の餅などが生まれたようです。
この頃、土佐でも砂糖が作れるようになったそうで一つの産業となったようです。
そうめんはそれまでは上方から来ていたらしいのですが、土佐で作れるようになると輸入禁止。
生菓子も作れるようになるとそれまで京都から買っていた京菓子を買うこともも禁止されたそうです。
生菓子を庶民が食べられるようになったのは1820年くらいの幕末だそうで、お祭りや会合の時に食することが許されたそうです。
西川屋さんはそうめん以外にも生菓子を平行して御用商人として山内家に献上したそうです。
西川屋さんの史料をみると山内の歴史もわかるのだそうで、そうめんを太くして焼いてつくったのがけんぴのルーツとの説もあるのだそうです。
12代藩主から梅干しに似たる菓子をとの注文書もありこれが西川屋さんの「梅干し」というお菓子になっているのだそうです。
おもしろい歴史の一面をみたような気がします。
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